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  • 執筆者の写真HANAE

【特集】エスケープ フロム: 能力主義 1

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 ある朝、一匹の巨大な毒虫になっている。急に全てが無理になっている。昨日まではできたことが今日はもう何一つだってできなくなっている……いや、今までだってギリギリだったのだ。目を覚ましたその瞬間から不可逆的な内部崩壊を知覚する。ああ、ああもう全部、無理なんだ。


 地方に住む親子の話を聞いた。就職の選択肢が少ないために専門技能を身につけさせたい親。一応は親の意向通りのことを試したものの合わなかった子。都内に住む親子の話を聞いた。軽度知的障害のある子の就職を寿ぐ親。何をしたいのかはおろか、何をしたくないのかすら一度として聞かれなかった子。

 焦る親に、喜ぶ親に、しかし私は伝えるべき言葉を持っていなかった。私は東京で生まれ育ち、大学生で、定型発達者であった。俎上の文脈においての完全なマジョリティが、当事者性を踏み越えて言えることはないと思った。「そう」でないことによって初めて、搾取されず/貧しくなく/生きづらくなく過ごせる「可能性がある」……少なくとも現時点では……、それを誰もが程度の差こそあれ感じている。実際に現実に今苦しむ当事者に/実際に現実に今苦しみから脱するチケットを手にしたかもしれない当事者に、私が言えることは何一つとしてないと感じた。


 グレゴール・毒虫・ザムザは肉体の変容から時間が経過すると共に意思疎通が困難になり、それがゆえに家族からますますの虐待を受け、痛みと失意のうちに衰弱死する。それを家族が「泣いて喜び」、「久しぶりに」「家族水入らずで」街へ出掛ける描写で物語は終わる。ある日突然生じた障害や疾患の、隠喩としての毒虫への変身。無能で醜悪な、何もできない存在に”転落”するリスク。不可逆的な内部崩壊→段々と断たれてゆくケア→衰弱死・厄介払い・「自由になれた家族」!

 私は考えてしまう。家計を支える存在がグレゴール一人ではなかったら?家族が外部から精神的なケアを受けられていたら?家計を支える存在が消失しても、その他構成員が計画や夢を諦める必要がないほど社会福祉が充実していたら?

 何もできない存在・ケアを要する存在である/になることは、本当に死を祝われるほど、生を呪われるほどに絶望的なことだっただろうか?


 フェミニズムだけでは限界があると感じている。より精緻には、私が希望を抱く思想をフェミニズムとは形容できないと感じている。「女性はそれであるというだけで不当な評価を受けている」「ジェンダーによる差別を辞めるべきである」、それは間違いなく絶対に正しく、実現されるべきだし、実現されなければ困るし、実現されていないのがおかしい。だがそれで達成されるのは「健全な競争」でしかない。競争しない人間はどこへ行く?競うべき変数を決めたのは誰だ?競争に参加しない人間は、競争に参加する人間より「下」なのか?


 既存の枠組みの中で生きることは避けがたい。内面化され、刷り込まれた自他の価値観に対しても、実際のところ、「そう」である全ての人が「そのまま」では搾取されず/貧しくなく/生きづらくなく生きることが難しいことに対しても当てはまることだ。


 しかしわずかな営みであったとしても、我々が奪ったり押し付けたりしている定義された「優」と「劣」をまずブチ壊す必要があることを、我々は間断なく前提し、実践し続けなければならない。

 高度な教育を受ける機会のあった定型発達者に対して、私の周りのお前たちに対して言っている。「優」とされて良い思いをしているお前たちこそが、「優劣」の価値尺度自体をブッ壊す営みを実践してほしいんだ。生まれた時から能力主義的な世界しか知らない、埒外を考える力がない。それでも我らは構造自体を破壊せねばならない。強者は強者であってはならない。

 何をしたらいいのかは全くわからない、選挙に行くとか前提過ぎる、「このため」に何をする必要があるのか?

 「優秀なことは良いことだ」、これに対して我々はどう考え、(時として)行動すればよいのか。この場を用いて思考の軌跡を残していく。


参考

フランツ・カフカ 『変身』


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